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空気を読もうと頑張ることはしんどいけど

自分が属しているあるコミュニティの中での話。

複数人の中で、1人が話をしている。

その話を聞くとき、どこを見ているだろう?

自分は、話し手ではなく

聞き手の表情を見ていることが

珍しくない。

それには、2つの理由がある。

1つは、他に話したそうな人はいないかな、とか

自分はどうすればこの場があたたまるのかな、とか

"その場をよりよくしたい"という気持ちから。

仕事で授業をしていても、話す子どもだけでなく聞く子どもの表情を見て理解度を測っているものだ(わたしは小学校の先生という仕事をしている)。

2つは、この話、笑っていいものなのかわからないとか、この人が本当に伝えたいのは何なのかわからないとか、"不安な気持ち"から。

まともに聞いても話の内容や意図がわからないとき、他の人の表情から読み取ろうとしている。

さて、

1つ目はいいんだけど、

2つ目の場合はしんどい。

なぜなら、

たいていの場合、キョロキョロ周りを見回しているのは自分だけだからだ。

そのとき、

みんなは笑っているけど

何に笑っているのかわからなかったり、

自分にはそれは笑ってはいけないことのように思えるのに

笑わないといけない雰囲気だったりする。

また、

話し手の話をそのまま純粋に受け取らずに

他の人の反応を介して受け取ることに、

違和感を覚える。

さほど気にしていないとはいえ、

その時はなかなかしんどいものだ。

...待てよ。

これは、あるコミュニティでの話。

どこにいてもしんどいわけではない!

とてもリラックスできる場所がある。

その1つが

「ミーツ・ザ・福祉」。

昨年からこのイベントのミーティングに参加しているが、

そこでは "当たり前" が違う。

あるコミュニティでは、

みんな理解できることが

当たり前。

ミーツでは、

みんな理解できるように工夫することが

当たり前。

目の見えない人、耳の聞こえない人、

はっきりとした音声で話せない人、

手足の不自由な人...

わかりやすい障がいのある人から、

私も含め、障がい者と言われていなくても

何かしらの苦手を抱えている人が

みんないっしょに話し合いをしている。

その場はあたたかい。

みんな理解できるように工夫することが

当たり前なので、

ゆっくり話す、紙に書く、

時間が来たら手を上げて知らせる

などを当たり前にしているからだ。

これがユニバーサルデザインだな、と思う。

しかし、それでも

表に出していないだけで、

もどかしい気持ちになっている人がいるかもしれない。

だって、あるコミュニティでは

私がそうだから。

ミーツでそう感じる人がいたっておかしくない。

だから、話し手だけでなく

他の聞き手の表情を見ることもする。

そういう人たちに想いをめぐらすことは、

私の仕事に大いに生きており、

常に、「自分だけがわからない」と

さびしい気持ちになっている子どもがいるという想定で

授業に臨んでいる。

まだまだ技術が伴わないけど。

今、耳の聞こえない人と

誰をも介さずコミュニケーションをとるために

手話を学びたいと思っている。

空気を読もうと頑張ることはしんどいけど、

相手を理解したいという気持ちは大切にしたい。

(文・増田 有希)